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オキナワの中年

オキナワの中年

沖縄戦とメディア

『日本近代文学会』会報、2002。

秋季大会特集発表要旨 大野隆之(沖縄国際大学)

 沖縄戦とメディアの関係を考える場合、昭和一〇年代にのみ注目するのは誤りである。多くの一般住民を犠牲にした沖縄戦の背後には、まず貧困と差別、そしてその解消を目指す明治以来の同化主義があった。独自の文化・習俗を持っていた沖縄県民が、極端な忠誠心を持つに至るまでのメディアの役割にまず注目したい。
 ついで沖縄戦そのものの描かれ方に関して、なるべく多様なメディアに注目して考えていきたい。きわめて過酷な沖縄戦においては、多様な情報を総合するジャーナリズムの位置はほとんど麻痺状態に陥っていた。それゆえ沖縄戦は戦史などの巨視的な情報と、限られた視野しか持たない個人的な証言とに二極分化した。また証言についても、あまりにも過酷で想起することすら困難であったり、自己の中のみに封印されたり、現在でも新たなものが出現する余地がある。さらに体験が神話化していくケースや、ステロタイプ化していくケースなど、多くの問題がある。
 映像メディアについては「一フィート運動」により、アメリカの持つ映像のかなりの部分が明らかになった。もちろん米軍という一定の視点から切り取られたもので、注意が必要であるが、これについても時間の許す限りふれるつもりである。
 沖縄戦を考えるときに、「小説」もまた重要なメディアであるといえる。それは大局的な状況と、個人の切実な体験とが交差しうる媒体だからである。また後述する体験の陳腐化を再活性化する、という意味でも、小説を中心とする虚構表現の可能性については再度検討する必要がある。沖縄戦をモチーフにした作品で著名なものには大城立裕の「日の果てから」、あるいは目取間俊の「水滴」などがあるが、両者とも沖縄戦を体験していない。体験しないが故に書きうるという点の重要性は認めるものの、今回の報告では、全国的にはほとんど無名であるが、沖縄戦の体験者である船越義彰の作品にふれるつもりである。
 現在沖縄では戦争体験の継承の困難性が、大きな問題になっている。これは目取間俊の重要なテーマでもある。ここには決して語り得ぬ「体験」というものの本質的問題、時間の経過による風化の問題、復帰後世代のヤマト化等様々な要素があるが、メディアや教育による表現の中で、体験が陳腐化していったという面もまた重要である。これにあからさまな政治利用が加わり、押しつけがましい「きれい事」となりかねない危険がある。こういったものに若い世代がうんざりするのもある種当然のことであり、今回の報告自体がそのようなものにならないよう自戒したい。




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